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月聖Inter10-3
2011-06-24 Fri 23:00


 於是詔 茲山者 徒手直取而。
          『古事記』







 ――――それが彼の終わり。そして始まりの記録。







 妻である弟橘媛を失い、それでも日本武尊の東征は止まらなかった。いや、その進撃はよりいっそう苛烈さを増したと言っていい。人を、神を、獣を。眼前の障害全てを斬り伏せ、彼は前に進み続けた。各地に散らばる反逆の芽、荒ぶる神々と賊たちを余さず刈り尽くしていったのである。

 その戦いの日々にも、やがて終わりが見えてくる。

 それは紛れもなく、武の神でもなければ成し得ぬ偉業だった。人の身では不可能な奇跡。独力での国の統一という不可能を成し遂げるまで、彼はあと数歩の所にまで差しかかったのだ。その頃になって、彼につき従った従者のなかに、この東征の成功を疑う者は最早皆無であったと言っていい。

 日本武尊。其はこの国で最も強きもの。この国で最も猛々しきもの。決して負けることの無き、不敗と必勝の体現者。

 従者の中に彼の“最強”を疑うものはいなかった。その強さを疑わず、その勝利を疑わず、その無敵を疑わない。彼の傍でその“武”を目の当たりにした者達は、その悉くが彼の無敵に心酔し、彼の勝利に喝采をあげ、そして彼の強さに――――怖れを抱いた。

 ――――ミコトは、正しく日本武尊であらせられる。

 従者の誰もがそう頷く中で、けれど、

「……」

 他ならぬ当人である彼だけが、自身が武尊足りえないことを知っていた。

『どうか、先へとお進みください』

 その声が耳から離れない。その姿が瞼から消えない。あの敗北の記憶が薄れない。
 それは彼の“日本武尊”につけられた、たった一つの傷だった。東征が成れば癒える筈だと信じていたその傷は、けれどここに至ってより一層その痛みを大きくしていた。
 それはまるで、血を流し続けていた傷が、次第に膿んでいくかのよう。
 食事をとることが厭わしい。呼吸をすることが苦しい。名を呼ばれることが、耐えられない。
 酒を呑んでも女を抱いても、その苦痛が彼を赦すことはなかった。じくじくと波紋のように広がり続ける痛みは、彼の全身を侵し、世界から色を奪い去っていく。

 はっきりといえば。

 その時の彼には、生きていること自体がどうしようもなく苦痛だったのである。

 そんな彼にとって、その痛みを唯一忘れさせてくれる時間が“戦い”だった。耳を塞ぎ、口を結び、ただ敵だけを見据えて無心に剣を振るっている時だけ、彼はその痛みを自覚せずに済んだ。
 そうして相手をねじ伏せて、自身の強さを証明することだけが、この傷を癒す唯一の薬だと彼は信じたのか。
 彼は、努めて戦いを求めるようになった。国の統一のために戦っていた彼には、やがては戦いそのものが必要となったのだ。それも敵は強ければ強いほど良い。相手が強ければ強いほど、自身が不利であればあるほど、その先にある勝利は自身の
武尊つよさを証明してくれる。

 だから、戦った。斬って殺し、薙いで殺し、殴って殺し、彼は自身の強さを証明し続けた。朱に染まった手は常に勝利を掴み、その歩みは確実に東征の完遂へと近づいていった。傍からみれば、それは間違いなく武の神の姿そのものだっただろう。

 ――――だというのに、彼の心を蝕む傷が癒えることはない。

 やがて、彼は知ることになる。どれほど戦いを重ね勝利を収めても、この傷が癒えることはないのだと。どれほど勝利を重ねても、あの敗北の記憶が無くなることはないのだと。
 けれど同時に、彼はもう止まることができなくなっていた。もしもその手を休めたら、あまりの痛みで死んでしまう。
 死ぬわけにはいかない。死ぬことなど許されない。その身を真実、日本武尊とするその日まで――――最低でも東征を成し遂げてこの国を一つとするまで、彼は死ぬわけにはいかない。
 だから、どれほど愚かしくとも彼は戦い続けたのだ。

 必死に、一心に、そしてどこまでも愚かに。

 戦い続けることで先に進めると、彼は信じるより他になかったのだ。


 





 伊吹山には神が棲んでいる――――その噂を聞きつけた日本武尊が、その討伐を決意するのに時間は必要なかった。まるで呼吸をするかのごとく、ごく当たり前に彼は次の戦場をそこに定めたのである。
 伊吹山の神を討つ。そう告げた主に対し、異を唱えた従者はいなかった。恐れを抱くものすら皆無であった。
 当然だ。彼らにとっては眼前の主君こそが、まさに武の神の化身なのだ。たかだか山の神如きに恐れを抱く必要がどこにある。
 ここに至って日本武尊の従者達は、主の負ける姿を想像することすらできなくなっていた。彼は負けない。そして当たり前のように今回も勝利を掴み、また一歩東征の完遂に近づくだろう、と。
 それは信頼を超えた盲信だった。故に従者達は、彼が『今回の戦いには自身一人で赴く』と告げた時も、それを止めることはしなかった。ただ彼にごく近しい幾人かが、ほんの僅かに眉を顰めただけだ。
 彼の巌のような表情に、ほんの僅かな危うさを感じ取ることができたごく少数の従者達は、

「今度の戦いに、剣はいらぬ。伊吹山の神は、素手で打ち取って見せよう」

 主がこう告げた途端、その顔色を変えた。
「お待ちを」と誰かが叫べば、「それはなりませぬ」と絶叫する者が続く。どうかどうか、それだけはお考え直しください、と。
 相手が神であることを、従者達は忘れていなかったのだ。異質にして異形。そして何より異能。視線を合わせれば眼が潰れ、その声を聞けば心が狂い、その呪いを受ければ肉が腐り落ちる。それが神だ。その神を相手に剣を持たずに挑むなど、正気の沙汰ではない。
 重要なのは武器としての剣ではない。防具としての剣だった。例え相手が神であろうと、日本武尊であればこれを素手で殺せる。しかし神の呪いを防ぐためには、どうしても神器・草薙剣の力が必要なのだ。人、獣、そして神。今日まで多くのモノを屠った彼がこうして無事にいられるのは、他ならぬこの神器が持つ守護の力によるところが大きい。殺すためではなく自らを護るためにこそ、彼は剣を手放すわけにはいかないはずなのだ。
 万言を尽くしてその軽挙を諌めようとする従者達を前に、しかし彼は首を縦に振らなかった。その余りの頑迷さに、やがて従者達は一人また一人と彼を説得することを諦めていく。

 ――――ミコトは確かに、お強い。

 ――――しかし今回のこれは、あまりにも自惚れがすぎるのではないか。

 彼の説得を諦めた従者達は、心中でそう嘆息した。今日まで日本武尊に仕えた彼らは、間違いなく優秀で義に厚い忠臣だった。だからこその諫言であり、彼らが真実、主君の身を案じていたことは疑いようがない。

 ただ、その従者達の中には、誰一人として彼の心中を正確に把握できたものがいなかったことも事実だった。

 武器を持たず鎧をつけず、身体一つで神に挑むという、その暴挙。
 神を侮っているわけではない。自惚れているわけでもない。彼はただ、神器に頼らずして神を討つことができたなら、今度こそ己の
武尊タケルを証明できるかもしれないと、そう考えただけだ。そうせざるをえなかっただけだ。

『どうか、先へとお進みください』

 ――――丸腰で神を討つことができたなら、あの日の記憶が消えてくれるのではないかと思っただけだ。

 傲慢? 真実はその対極だ。

 彼はただ、自らを苛む痛みを堪えるのに、必死だったのだ。


 彼のその心に、もしたった一人でも気付くものがいたのなら、その後の悲劇は回避できたのか。
 答えは否である。何故なら彼の心を理解していた者は
いた・・のだ。その痛みを、苦しみを、渇望を、そして何より彼の心の底にある望みを、あるいは彼自身以上に理解していた者は居たのである。
 従者の中に、ではない。繰り返すが、従者の中に彼の心の内を理解しているものはいなかった。彼を真に理解し、そして最後まで彼を止めようとしたのは――――弟橘媛亡き後、東征の最中に彼が娶った新たな妻である。
 彼に求められた者。その求めに答えた者。真実、彼を理解していた者。伊吹山へと向かう彼が、神器を託した者。

 その女性の名を、
美夜受媛ミヤズヒメと言った。








 その日は雲一つない青天だった。その空の下にあって、静謐を保った霊峰の姿は、まるで青空に浮かび上がっているように見えた。
 霊峰・伊吹山は、見る者の心を打つ、一種の荘厳さすら漂う山であった。成程この山には神が棲んでいる。これほどの霊峰に神が棲まぬはずが無い。そう納得するほどの威厳を備えた山である。

 その荘厳なる山が、これより戦場と化す。

「――――媛」

 御山を前にして、日本武尊は腰に佩いた草薙剣を手に取ると、眼前で佇む女に差しだした。それはこの霊峰・伊吹山を前にしても、ついに彼の意思が変わらなかったことを示していた。一切の武器・防具を身につけぬ、無手による神の討伐。その余りの愚かな考えを、彼は実行しようというのである。

「…………」

 差し出された剣を前に、しかし美夜受媛はそれを手に取ろうとしなかった。ただ彼女は、僅かに眉を顰め、まっすぐに彼と視線を合わせただけだ。
 間近で見る彼の黒い瞳は、どこまでも空虚であるように彼女には見えた。まるで地の底まで続く穴倉を覗き込んでいるかのようだ。その事実が、彼女には余りに痛ましい。
 いっそ彼の瞳の中に傲慢の色があればよかった。不遜の気配があればよかった。愚かさがあればよかった。であるならば、彼女は万言を尽くしてでも彼を諌めただろう。
 けれど無理だ。無理なのだ。彼は傲慢でも不遜でもない。愚かではあるかもしれないが、彼自身がその愚かさを自覚している。愚かなまでに、彼は必死だったのだ。ならばその心を正すことは、この世の何者もできまい。

「……ミコトよ」

 発せられた彼女の声は、あまりにも美しく、よく響いた。美夜受媛はその名の通り、夜を切り取ったような黒髪を持つ美しい女性だ。しかしその美貌すら、彼女の声の美しさの前には霞む。
 彼の名を呼んだ彼女は、しかし未だ剣に手を伸ばそうとはしなかった。それを手に取ってしまえば、眼前の夫が永遠に失われてしまうように思えたのだ。
 彼の心を正すことはできない。それを悟っていながら、なおも彼女は諦められなかった。彼の痛みを、心の欠落を、そして何より彼の望みを。その全てを理解した女は、無意味と知りつつも言葉を紡ぐ。

「ミコトよ。貴方は御強い」

「――――かもしれぬ」

「ミコトよ。この山の神は怖ろしい」

「――――かもしれぬ」

「ミコトよ。この剣を手放しては、貴方は生きては戻れません」

「――――かもしれぬ」

 かもしれぬ。かもしれぬ。そうかも知れぬ。
 だからそれを確かめに行くのだと、彼は身を案じる妻にそう言った。強きか、弱きか。勝利か、敗北か。己は真実、武尊か否か。それを確かめずしては、生きていくことすらできないのだと。

「…………ミコトよ」

 変わらず空虚な黒瞳を前に唇を噛んだ彼女は、一瞬の躊躇の後、それを告げた。
 それを告げることに、彼女は自身の死すら決意した。少なくともそれを聞いた彼が激昂し、手にした剣を己に振りおろしても止むを得ぬと、それほどの決意を固めて告げた言葉だった。
 
 ――――その命をかけて、彼の進む道を切り開いた弟橘媛の想いが愛ならば。
 その命をかけて、彼の進む道を閉ざす美夜受媛の想いもまた、愛であるはずだった。

 自らの手を彼の手に重ね、彼女は、




「貴方の願いは、
永久とわに叶わないのです」

「で、あろうな」






 それでも。
 
 彼は
武尊タケルを、辞めるわけにはいかない。








 結論として、美夜受媛はどこまでも正しかった。
 草薙剣を手放した日本武尊は、絶大な呪力を持つ伊吹山の神に呪い殺されたのである。
 それが東征の終わり。彼の終わり。タケルの終わりだ。国の鎮定のために剣を振るい、クマソとイズモのタケルを討ち、東征をほぼ成し終えた空前にして絶後の大英雄・日本武尊は、伊吹山の神に敗北して死んだ。
 最強を証明しようと足掻き続けた彼は、その人生の最期に、自身のタケルを決定的に否定されたのである。



 さて、そんな彼の敗北と死は、けれど決して特別な悲劇などではない。



 確かに悲劇ではあるだろう。しかし英雄などという存在は、誰もがその人生に悲劇を抱えている。万人に知られた英雄譚など、いっそ悲劇が付き物だと言っても過言ではない。悲劇なくして英雄は輝かず、その名を後世に残すことはないのだ。
 ならば彼の妻の死も。
 そして、彼自身の死も。
 一つの英雄譚としてはごくありふれた、
当たり前・・・・の悲劇でしかない。

 だから彼の物語は、決して特別な悲劇などではない――――が。



『どうか、先へとお進みください』



 彼女を喪ったその痛みを、自身の
武尊タケルが否定されたことへの痛みであると、履き違えてしまったこと。
 世界から色が消え、生きていることすら苦痛となるその喪失感は、愛する者を喪ったがゆえであると最期まで気がつかなかった、その事実だけは。

『今日からお前がタケルだ、皇子よ』

日本最強ヤマトタケル”の名を冠した彼に訪れた、たった一つの特別な悲劇だったのかもしれない。








 どれほど強くなろうとも、彼の痛みが消えることはない。
 それは、どこまでも正しかった美夜受媛が彼に告げた通り、

『貴方の願いは、
永久とわに叶わないのです』

 愛する者を喪ったという事実を、なかったことにはできないのだ。







 月の浮かびし聖なる杯  Interlude10-3 ~Pain~







 風が、荒れ狂っていた。それは魔力によって紡がれた風だ。騎士王セイバーの宝具・『
風王結界インビシブル・エア』。光の屈折を変えることで纏った刀身を不可視とする風の結界は、担い手の意思に答え、その固定化を解いていった。
 それはまさに暴風だった。物理的な破壊力すら伴った台風だ。その風の中にあって、しかし絶大な対魔力に加え嵐除けの加護を持つ『セイバー』は、微動だにせずその光景を眺めていた。
 やがて一層強くなる風とともに徐々に露わになるのは――――星の鍛えし貴き幻想。

「…………」

 その刀身を目の当たりにした『セイバー』は、無表情の仮面の裏でそっと嘆息した。
 これは彼が今回の戦争で召喚に応じ、騎士王セイバーの存在を聞かされてから幾度となく想像していた中で、限りなく最悪に近い光景だった。つまり自身の敗北する可能性が最も高まる状況ということである。
 そもそも彼にとって最初のイレギュラーは、前回の戦争より今まで現界を続けているセイバーの存在そのものだった。この国が生んだ英雄達の頂点に君臨し、かつ宝具・草薙剣を担う日本武尊にとって、召喚が限定された今回の戦争で負けることなどありえないはずなのだ。事実この戦争にイレギュラーさえ入り込まなければ、勝つのは間違いなく彼だっただろう。

 イレギュラーは二つ。セイバーとアベンジャー。いずれもこの国の英雄ではないサーヴァントである。

 戦争開始直前、セイバーの存在をエリシールより聞かされた彼は、即座にキャスターとの連携による
遠坂凛の殺害マスター殺しを己のマスターに提案している。これはエリシールによって却下されたが、それが為されていれば勝利は確実だったはずだと、彼は今も思っている。
 目的である聖杯獲得を達成するのに、『セイバー』に躊躇はない。あらゆる意味で今の彼には勝つことが全てであり、そのためならばあらゆる手段が正当化される。誰かに許してもらうのではなく、彼自身が非道な自分を許せる。それこそがタケルの名に呪われた彼が得た、たった一つのちっぽけな武器だった。

 その『セイバー』にとって、かの聖剣と真正面からやり合う戦場など、正に最悪に近い。しかも前回の顔合わせとは違い、今回はこれをいなすだけでは済まないのだ。

 しかしそれは、真の最悪ではない。彼にとっての最悪は、聖杯を手に入れられないことだけだ。そして無為に時間を消費すれば、その最悪は確実に訪れるのだ。ならばどれほど最悪に近かろうと、戦闘の早期決着のためにはしかたないと覚悟を決めるしかない。

 さもなければ、彼がアサシンを殺すことは不可能になる。

 桜との誓約によってアサシンを殺すことができない『セイバー』が聖杯を手に入れるためには、どうしてもアサシンの行う“魂の交換”の儀式に立ち会う必要があった。魂を入れ替えるその瞬間にだけ、彼は自身を縛る誓約が緩むと推測している。桜であって桜でなく、アサシンであってアサシンでない。その肉体が何者か定まるまでの刹那の瞬間ならば、これを殺すことは可能である、と。
 その儀式に立ち会うためにも、ここで時間を消費するわけにはいかない。何としても士郎と凛がアサシンに敗れる前に、セイバーを打倒せねばならない。
 アサシン殺害の後、桜の魂は正しく新しい身体に宿るのか。そして生誕するアンリマユの存在をどうするか――――そんなことは、彼の知ったことではなかった。聖杯さえ手に入れることができれば、その他の諸々のことはどうでもいいというのが彼の基本姿勢である。

 いや、どうでもいいというよりは、そんなことまで考えている余裕が『セイバー』にはないと言った方が正しいかもしれない。

 召喚されてより今日まで、その能面のような表情の裏で、彼は常に必死だった。勝つために、負けぬために、聖杯を手に入れるために。一片の油断も情も余裕もなく『セイバー』はこの戦争に臨んだ。臨まざるを得なかった。
 彼にとって聖杯は、自身の望みを叶えるための数少ないよすがだ。“最強”という最終的な目的には届かずとも、存在を固定化された自身を改変できるかもしれないという、数少ない機会なのだ。
 この機会を逃すわけにはいかない。その願いを叶えるためだけに、彼は世界と契約し自らの死後を売り渡したのだから。
 日本武尊は、世界に願うことで奇跡を起こし、その結果として英雄になったわけではない。世界との契約なくして独力で英雄となった存在である。
 さらに彼はその死後に生前の功績を評価され、大神の治める神々の安息地――――すなわち高天原へと昇ることが許されていた。その身を白鳥と化した彼はその場所に至り、永遠の休息を得るはずだったのである。

 それは、妖精郷にて眠りにつくといわれる、遠き異国の王の物語とよく似た話。

 その両者は、しかし共にその安息を捨て、死してなお再び戦場に戻る決断したのである。
 
 ただ、その理由だけが違った。国の滅びを目の当たりにし、王の選定をやり直すために聖杯を求めた騎士王に対し、この武神は“敗北した弱い己”のままで世界に記録され続けることを忌避したのだ。
 少なくとも、彼自身は己の願いをそう認識している。そしてそれは、決して
間違ってはいない・・・・・・・・
 故に、かつて無手で挑んだ伊吹山の神に呪われ、敗走の末に死に直面した瞬間、彼は世界にこう願った。

 ――――私が、私の望む
日本武尊わたしと成る可能性を寄越せ。

 その願いを聞き届けてくれたなら、その身を死後も預け、抑止の走狗となることも厭わぬと彼は契約を交わしたのだ。
 彼にとって今回の聖杯戦争は、その契約の一つの形なのである。存在の固定化された自身の改変が叶うかもしれない、数少ない可能性の一つ。それが聖杯だ。

 とはいえ本来、この戦争への参加は彼には許されないはずだった。まして“セイバー”のクラスで召喚されるなど、不可能なのである。

 理由は単純、彼と同じく世界と契約した騎士王アーサーの存在である。死後を預ける代わりに聖杯を手にする可能性を望んだ彼女の願いの方が、この聖杯戦争という舞台では優先されるのである。聖杯戦争への参加権の優先順位という点で、日本武尊はアーサー王より立場が低い。
 つまり今回日本武尊がセイバーのクラスでこの戦争に参加できたのは、アーサー王が前回から現界し続けたことでその枠が余っていたという、幸運にすぎない。
 ならばこの邂逅は、イレギュラーではなく必然だ。この冬木の聖杯を手にしようと思うなら、騎士王セイバーは決して避けることができない壁なのだ。
 その事実を『セイバー』は知らない、が――――

「……二度の戦争に勝利した最強の剣か。だが、三度目はないぞ騎士王」

 暴風の中、セイバーの耳に届かぬ声で『セイバー』はそう呟いた。
 風の壁の向こうで、セイバーは凛とした眼差しで『セイバー』を真っ直ぐに見つめている。
『セイバー』には聖杯戦争の舞台裏の事情など知るよしもなかったが、英雄・アーサー王の知識は召喚の際に与えられていた。サーヴァント・セイバーとしての彼女については、エリシールから聞いている。
 曰く、選定の剣を抜いて国の統一のためにその生涯を捧げた偉大なる王。過去の王にして未来の王。全ての騎士達の王、即ち騎士王――――数々の栄光に彩られた彼女の物語は、けれどその最後に国の崩壊と彼女自身の死によって幕を閉じたという。
 四度目の戦争においてアインツベルンのサーヴァントとして戦った彼女について、エリシールはこう言った。

『――――ええそうよ。四度目の戦争で、彼女は強く聖杯を求めていたと聞いてるわ。貴方と同じくね。けれどセイバーは二度もその聖杯を破壊している』

 その晩年に聖杯探索を命じたという伝説からも、セイバーが強く聖杯を求めていたことは間違いない。ならば彼女には、願いがあるはずなのだ。聖杯でなければ叶うことのない、強い願いが。

「…………」

 心の奥底で、何かが鎌首をもたげるのを『セイバー』は自覚した。それは本来、ありえないことだ。彼にとってこの戦争は聖杯獲得こそが唯一の目的だ。それがよりにもよって――――その聖杯を求め争う敵の一人に、興味を持つなどと。
 吹き荒れる風の中心点。その場所で剣を構える騎士王の姿を改めて眺める。
 曰く、選定の剣を抜いて国の統一のためにその生涯を捧げた偉大なる王。過去の王にして未来の王。全ての騎士達の王、即ち騎士王。


 その彼女は、果たして――――


 沈思の間に、気がつけば周囲に渦巻く風が弱まっていた。間もなく風が止むと同時、この戦いも決着する。
 そんなぽっかりと空いた空白の時間が終わる前に、

「……王よ。最後に一つだけ、訊ねたいことがある」

 気がつけば『セイバー』は、そんなことを口にしていた。








「……?」

 唐突な呼びかけに、セイバーは僅かに身を硬くした。
 そんな彼女の様子には構わず、『セイバー』は言葉を続ける。

「騎士王・アーサー。あるいはサーヴァント・セイバー。貴殿の話は耳にしている」

 選定の剣。円卓の騎士。繰り返される裏切り。聖杯探索。そして――――カムランの戦いと、国の滅亡。
 第四次聖杯戦争。勝者なき終わり。五度目の戦争における再召喚。そして――――聖杯の破壊と、今日までの現界の継続。

「王よ」

 勝利と敗北、栄光と破滅に翻弄された、遠き異国の王よ。
 このちっぽけな島国に生まれた、最強のなりそこないが問う。



「貴殿は、望みを、捨てることができたのか?」

「――――――――!」



『セイバー』が口にしたそれは、

「望みがあったのだろう? 貴殿にもまた、私と同じく聖杯にかける望みが。その聖杯を破壊し……なおも今世に現界を続けている貴殿は、聖杯への望みを捨てたのか?」

「そ……れは」

 かつて聖杯を求めていたはずの英雄に対する、たった一つの疑問だった。



「……私は」

 視線を逸らし、再び向け、痛みを堪えるように唇を結んで、セイバーは刹那の時間瞑目した。
 国の滅び。民と騎士達。そして選定の剣。瞼の裏を過るのは、かつて見た滅びの丘の光景であり、彼女に仕えたものたちの姿であり、岩に突き立った一本の剣だ。
 ――――悔恨。
 いつだってその光景に付きまとう感情は、その一言に尽きた。
 その悔恨を、捨てることができたのか。
 答えは――――

「――――いいえ『セイバー』。私はきっと、未だ聖杯への望みを捨てきれてはいない。私はまだ、答えを得ていない」

 そう告げたセイバーの表情は、けれどどうしてか言葉とは裏腹に穏やかなものだった。

「答え?」

 訝しげに問い返す『セイバー』に、セイバーは頷いた。

「私は良き王ではなかった。そうあろうと努めはしましたが、けれど私には王として何かが足りなかった。ずっとその思いがあった。」

「…………」

「それが何なのかもわからないまま――――こうも思ったのです。選定の剣が私を選んだのは、何かの間違いだったのではないのかと。本当はもっと王に相応しい人物が、他にいたのではないかと」

 その思いは、騎士王最期の戦場にて極まった。

「そして貴公も知っての通り、私の国は滅びた。その時に確信したのです。やはり、私が王に選ばれたのは間違いだった。だからその間違いを正すために、私には聖杯がどうしても必要だった」

「……過去の改変。やり直しか」

 そこまで聞けば、この王の望みを推察することは難しくはなかった。
『セイバー』の言葉に、セイバーは再び頷いた。

「そうです。選定をやり直し、今度こそ相応しい者を王に据える。それが私の望みです」

 未だ吹き続ける風の中。
 正眼に構えた聖剣の切っ先を僅かに下ろしセイバーは、

「――――けれどそんな私を、間違っていると断じた人がいた」

 風に外套をたなびかせ佇む、赤い弓兵の姿を幻視した。








「私は聖杯を使って国を救うためだけに、サーヴァントとしてこの時代に現界した。そんな私が、けれど“彼”の言葉を戯言だと切り捨てることが、どうしてもできなかった」

「…………」

 無論、『セイバー』がその男のことを知るはずもない。第五次聖杯戦争。アーチャーのクラスで召喚されたそのサーヴァントについて、彼は何の知識も持ってはいない。

 英霊エミヤ。

 今より未来に存在したかもしれない、衛宮士郎の一つの可能性。

「ですが私は、私の願いの何が間違っているのかがわからない」

 その答えを彼は残していかなかった。ただ間違っているとだけ彼女を断じ還ってしまった。
 ――――彼は私が間違えていると言った。
 その答えを、いつか。

「だから私は、今もこの時代に現界している。その答えをいつか、シロウが私に教えてくれるその日まで」

「……そうか」

 疑念は解けたと、『セイバー』はぽつりと呟いた。言葉よりも何よりも、自らを語るセイバーの瞳の中にこそ、彼はその答えを見たのだ。
 聖杯への望みを捨て切れずとも。
 過去への妄執を未だ断ち切れずとも。

 それでもこの王は、先に進んでいる。

 答えを探して前を向くセイバーの瞳は、『セイバー』とは違う。
 止まり、澱んでしまった瞳とは、違う。

「…………」

 ごう、と一際強く耳朶を打つ風の音で、不意に『セイバー』はかつて遭遇した嵐を思い出した。それは遠い昔の記録。雨と、風と、そして一人の女に支配された記録だった。
 その記録の中で、けれど女の顔だけはどうしても見えない。わかるのはただ、彼女が最期に告げた言葉だけだ。

 ――――どうか、先へとお進みくださいと、その女は言っていた。

「……媛よ」

 
進めぬよ・・・・――――記録の中の彼女の言葉に、彼は心中でそう呟いた。

 彼女を喪ったあの日から。
 ヤマトタケルにはなれず、オグナに戻ることもできず。
 彼はずっと、あの嵐の中で立ち尽くしたままだ。








「……“水よ”」

 その瞳に寂寥を浮かべたまま、『セイバー』は手にした剣を突き出した。
 担い手の意思に呼応し、神剣を包んでいた水の鞘が即座にその固定化を解き、地面の上に弾けて消える。

 血糊を飛ばすような仕草で一度剣を振り、

「“我は”」

 顕わとなった黒い刀身を見つめ、『セイバー』は自己の内へと潜っていった。それはかつて、彼が大きな戦いに臨む際に自己にかけていたまじないだった。

「“
日本ヤマトの”」

 自己に暗示をかけ、目に映る刃で心を削ぎ落とす。
 そうして恐怖を、情を、誇りを愛を弱さを、戦いに不要な全てを削ぎ落としていけば、

「“
武尊タケル、也”」

 ほんの少しでも、理想の
日本武尊じぶんに近づけると信じて。

「――――来るがいい、騎士王。貴殿の魂を聖杯に捧げ、私は先に進む」

 セイバーに向けられた瞳には、既に感情の名残すらもなかった。そこに立つのは一振りの剣。かつて国によって振るわれた、日本武尊という銘の剣だった。
 その宣言に剣を構えなおしてセイバーは、

「私は、シロウと凛の元に行く」

 国のためではなく、民のためではなく、あるいは誰かのためですらもなく。
 今はただ、その身を突き動かす衝動の命じるままに。

「ヤマトタケルノミコト――――貴公の
最強ねがいを、この剣で打ち砕かせてもらう」



 風が、止んだ。



 まるで申し合わせたように、両者は共に背後に跳んだ。二度三度と地面を蹴り、数十メートルもの間合いが開く。
 その間合いを挟んで、騎士王と武神が、

「行くぞ――――」

 膨大な魔力を蓄えた聖剣を、担ぐ。

「来い―――――」

 視認できるほどの濃密な魔力を帯びた神剣を構え、腰を落とす。
 そうして、刹那の静寂の後、



「――――『セイバー』!」

「―――――セイバー!!」



 互いの、同一のクラスを呼ぶ声が重なり合い、




「“
約束された勝利の剣エクスカリバー”ーーーー!!」



 真名は、解き放たれた。











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